「みんな一緒」、だから「みんな違ってみんないい」 その2
前回記事、宮城県在住のOさん戻りのエネルギー浄化の続きです。
浄化のキーワードから、どのように日常生活で湧いてくる感情や思考にアプローチするか、手に取るように具体的に記されていますので、浄化統合の参考になると思います。
ホ・オポノポノも、確かそのような浄化法だったように思います。
全てはみんな繋がっているのです。なぜなら、自分が感得しているすべては自分の宇宙に存在しているからです。
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もらったキーワードを、息子だけでなく自分の中にもあるものとして意識を向け、「自分の中の、どの固定概念・古い記憶と結びついてるんだろう」と問いかけると、すぐに現実に変化が現れました。
翌日職場で、いつもと違う仕事を割り振られたんです。珍しいな、と思いつつ仕事に取り組んでいてふと感じたのは、「一体感」というものでした。
その仕事は単純作業で、「単運すぎて飽きる。やりたくない」「毎日やってると退屈通り越して苦痛」という人もいるほど地味な作業です。その地味な作業を、普段特に文句を言う人と一緒に、黙々と取り組む。そうしているうちに、作業している人たちとの「一体感」を感じながら、ふと、今回のことに「優越感」が絡んでいることに気づきました。「退屈な作業」を自分はこれまで割り当てられなかった。その優越感がどこかにあったのでは?という思いからでした。
「そんなことは分かっている」「僕は偉い」とつながる、優越感。そしておそらく、その裏には「劣等感」があり、「僕は本当はダメなやつ」「どうしようもない。手足が動かない」とリンクしている。
そんなことを考えながらも、黙々と作業を続けているとなぜかすごく穏やかに気持ちになり、周囲の人たちとの「一体感」というイメージが湧いてくるんです。
「優越感」と「劣等感」を統合して、「一体感」を感じるための「戻りのエネルギー」なのかな、と漠然と考えました。
授業参観日に大いなる涙の浄化
翌日の授業参観で、それは決定的となりました。
息子の問題が発覚した、次の週の土曜が参観日だったので、どれだけひどいことになるのかと、最初は戦々恐々としていました。でも戻りエネルギーのサポートを申し込んで内観が始まると、びっくりするほど気持ちが落ち着いて、何一つ解決したわけではないし、不安もあるにはあるのですが、なぜか「何とかなる」という確信みたいなものもありました。
そんな気持ちで授業参観にのぞむと、そこでも「優越感」と「劣等感」を明確に感じることになりました。
授業参観中の息子は、驚いたことにとても落ち着いていたのですが、他のお子さんで、教室に入れずに廊下で授業を受けるお子さんや、先生が話しているときに立ち歩くお子さんなどがいて、「ああ、息子じゃなくてよかった」「落ち着きがないのは息子だけじゃないんだ」と安堵しながら、「あ、これって優越感が混じってる」とハッとしました。
逆に、保育園時代から一緒の女の子(とてもしっかりしたお子さん)のお母さんが、おそらく何の心配もなく参観しているのだろう姿を見ていて、どうしようもなく劣等感を感じてしまったり。
そうか。優越感の裏には劣等感があるんだ。結局どちらも同じということなんだ。
そう思ったとき、不意に「みんな一緒」という言葉が浮かんできました。
昨日の仕事中に浮かんだ言葉、「一体感」。そして参観日での「みんな一緒」。
つまり、優れているとか劣っているとか、そこにこだわらなくても、結局「みんな同じ」なんだということ。
息子がお友達をたたいてしまっとき感じた、「加害者になるより被害者になる方がまだマシだった。被害者なら同情してもらえるから」という思いも、「みんな一緒」が心から腑に落ちれば、「加害者」「被害者」になる現実を見ることもなくなるってことなんだろうな、と思えました。
そのことについてさらに考えていると、「孤独」という言葉も浮かんできて、「うん、みんな一緒、の反対は孤独だよね。孤独が原因で、優越感も劣等感も出てくるし、加害者になったり被害者になったりする。でも、どちらも同じこと。「みんな一緒」ということを思い出せば、劣等感も優越感も、被害者も加害者も必要ないんだ」、と。そして、「みんな一緒」というベースがあって初めて、「みんな違ってみんないい」という「個性」も、良い形で伸びていくんだろうな、と思いました。
授業参観中のこの気づきでお腹いっぱい(笑)と思ってたのですが、その後のPTA総会でも、息子の学校生活にまつわる大きな気づきがありました。それもまた、優越感と劣等感、「みんな一緒」ということが関係していたのですが…。
息子の通う小学校は、公立なのですがなぜか「名門」というのを売りにしていて、新入生の説明会でも入学式でも、教頭・校長が「我が校は歴史が古く、名門校としての…」と、その古い歴史を詳し〜く語ってくださっていたのでした。
最初にそれを聞いたときは「公立なのに名門とか言われても、別にどうでもいい。というか、息子みたいに落ち着きのないタイプには合わないんじゃないのか…」と、マイナス感情を持っていました。
授業参観後のPTA総会でも相変わらず「名門の〜」と校長・PTA役員の方々の話が続いたのですが、それを聞いて以前のマイナス感情を思い出したとき、「よく考えたらその“名門”の説明にそこまで反発すること自体、“自分はえらい”の反射だったんだな…」と気づきました。
「自分はえらい」という感情(優越感)を持ちつつ、「そうじゃない自分」へのいら立ち(劣等感)が同時にある。その優越感と劣等感が、「名門」という言葉に刺激されて、マイナス感情として出てきていたんだな、と。
するとまたしても「みんな一緒」という言葉が浮かんできて、今度はそれとともに涙も出てきて、「そうか。これまで劣等感の裏返しで、名門という言葉に敵意みたいなものを感じるあまり、校長はじめこの学校の教師やこの学校の校風そのものも敵視してたんだ。私がアウェイと感じる環境の中で、息子が楽しく過ごせるわけなかった」ということにも気づきました。
「学校も先生も敵じゃない。味方。ていうか、みんな一緒」なんだと。だからガチガチに緊張しなくても大丈夫なんだ、と。PTAの会計報告などを聞きながら、やたら涙が出てきてしまって、ごまかすのが大変でした…。
子どもの攻撃性に「優越感と劣等感」が関与
さらに家に帰ってからは、ふと「息子の攻撃性はどうしてだろう」と思ったところ、これもやはり優越感と劣等感が関係しているんだと気づきました。
先生を「お前」と呼んでしまったり、お友達を叩いてしまうなどの攻撃的な一面も、「自分を強く見せる」ことで優位に立とうとしていたこと。でも反対に「どうせ僕なんて生きてたってしょうがない!」「僕が死んでも誰も悲しまない!」という劣等感が同時にあった。
そう気づいたとき「恐怖」という言葉が浮かんできて、「孤独」だけでなく「恐怖」から優越感・劣等感が出てくることもあるんだ、と思いました。。
それが、サポートで教えてもらった「僕は本当はダメなやつ」「どうしようもない。手足が動かない」とつながってくる。「手足が動かない」というのは、恐怖ですくんでしまった状態なんだろうと感じました。
「孤独」や「恐怖」も「みんな一緒」とわかれば怖くない。だからきっと息子の行動も落ち着くはず…そう思えました。
そうした気づきを、Nさんに報告したところ、
『お気づきのとおり、光と影は一体で、両方味わって受け入れたときに
浄化統合して「みんな一緒」、つまりワンネス、本当は1つなるものしかない
ということを実感できるんですね』
と返信いただきました。
この気づきは、私にとって本当に大きなものでした。
入学して1週間たったあとの、息子の突然の荒れようには途方に暮れてしまいましたが、「みんな一緒」というワンネスを感じ、最終的に「学校も先生も味方」と思えるようになったことで、今後きっと息子は変わる、と心から信じることもできました。
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日常生活で、対人に対して違和感を覚える場合や、苦痛な出来事には意味があることが多いのですが、Oさんもきちんとそれを受け止め、逃げずにその意味を見つめていらっしゃいます。
起こる出来事には、本来、プラスもマイナスもありません。ただ起こっているだけ。
なぜ起こるか。自分の宇宙に存在しているからです。
具体的には、過去生で体験しているエネルギーのエッセンスがあるためですが、
それに意味を与えるのは自分次第なのです。
「こんなこと嫌」という意味付けをするのか、
鏡として自分を内観し、自分の中にあるエネルギーに気づくか・・・・
さて、楽しく充実した人生を送れるのはどちらでしょうか・・・
今回の最終回、3回目も数日の間にアップさせていただきます。